第2話 Poddelka

「この辺りがなにもないだと? 彼奴らの目は節穴か?」
棘を含んだ冷たい声。ユレンはひどく不機嫌そうだった。顔を見ずとも、ピリピリとした気配が隣を歩く案藤にまで伝わってくる程度には。
「まあ……みんな勘違いしていただけかもしれないし……」
案藤が遠慮がちにフォローを入れる。
というのも、頭の回転の速い二人が今回特別に任された仕事は、まだ調査が充分に及んでいないエリアの地形確認だった。
その場所は他の拠点付近に比べ、かなり情報に遅れが生じていたのだ。
避難所にいる非戦闘員である一般人を対象に聞き取り調査をした際、彼らは近辺にはなにもないと答えた。それを信頼できる情報としてしまったレジスタンスはこのエリアの探索の優先順位を下げ、他の場所から調べ始めたのだ。
慢性的に人員不足のレジスタンスには、他にも手を回すべき事柄が多くある。こういった調査の他に、化け物との戦闘、一般人の保護、非戦闘員が行っている農作業の手伝い、魔法の研究、その他雑務……。
それゆえ一度後回しにされた作業は、次々増える新しい仕事に流されていき、誰も手付かずの状態が続いてしまうことも珍しくはない。
「どうせ危険を恐れて適当なことを抜かしたのだろう。奴らが私をどういった目で見ているか知っているか?」
「それは、そうかもしれないけれど……」
ユレンは戦う力を持たない一般人ととにかく反りが合わない。実際に何度か衝突したこともある。その度に案藤や、ペアの京が間を取り持ってきた。
一般人の中には、レジスタンスとの関わりを極力避けようとする者もいる。魔法という不可思議な力を持った武装集団。ある意味、得体の知れない存在だと思われているのだろう。

「どいつもこいつもこの私の手を煩わせる、役に立たん愚図ばかり」
「ま、まあ、組織の運営に関わるような遅れじゃなくて、よかったよ」
「痴れ者め、そのような事態が発生してからでは取り返しが付かんだろう、今度奴らの根性から叩き直す必要がある」
「ダメだよ、ほら、あまり一般の人にキツいことを言うと、後々また幸見だって困るだろうから……この件に関してはどうか許してあげて、ね?」
「奴の名前を出すな」
ユレンは不愉快さを全面に押し出すように、大袈裟に溜息をついた。
「……全く、正しく生きられない者に価値などあると思うな」
案藤は彼女が、ある種盲目的とも呼べるほど『正しく在ること』に対して真っ直ぐに、従順に生きていることを知っていた。たしかに他者への遠慮を欠いた厳しい物言いばかりをしているが、それら全てが間違っているとは思わない。だからもう、なにも言わないことにした。黙って頷く。


「あ、ねえ見て」
案藤が指をさした先には、二階建てほどの……元は人が住んでいたと思われる建物が数棟、連なっていた。
「家があるね。壊れてないし……ここってまだ、化け物に襲われていないエリアなのかな? だとしたら安全地帯かも」
「調べてみるか」
二人は建物に近づく。壁はところどころ傷んでいるものの、大きな損壊は見当たらない。
赤く錆びた入り口の扉も、少し押せば難なく開けることができた。
埃っぽいが、廃墟にしては良い状態である。少し片付ければ住居として充分機能しそうだ。
「ここを一般の人たちの新しい避難場所にできないかな?」
「拠点からは少し遠いが……通信手段さえあれば叶うかもしれん」
調査は順調に進んでいた。そう、思っていた。その時。

突然、ギイ、と低い音が鳴った。
奥側にある塗装の剥げた扉が開いたのだ。
先客がいたようだ。敵か、味方か? 想定の範囲内とはいえ、無駄な戦闘は好ましくない。二人は神経を研ぎ澄ませる。

「あら……浅ましい家畜ども、こんなところにまで来ていたのね」
ハイヒールを履いた足音に続き、憎々しげに吐き捨てられた女性の声。
「化け物……!」
扉の向こうに立っていたのは、美しい金髪の少女。一見すると普通の人間だが、案藤にとってはひどく見覚えのある、憎むべき化け物だった。たしか、名はフラン。
「あの人」を、殺した張本人。
その姿を目にしただけで、急速に腹の底から煮え滾った怒りがせり上がってくる。全身が震えそうになるが、恐怖のためではない。案藤は憎悪にも近い憤りをぐっと呑み込んだ。今は隣にユレンがいる。自身の持つ醜い一面を、できるだけ仲間には見せたくなかった。
感情を殺すことくらい、慣れている。口の端を吊り上げた。いつもと変わらない笑顔と柔らかな口調で、案藤はフランに語りかける。
「君、ここは危ないから出たほうがいいよ」
なるべく友好的に。なるべく温厚に。穏便に済ませられるように。自分に何度も言い聞かせた。言葉や態度の端々に、敵意が滲んでしまわぬよう。
「案藤、本心でないのならくだらん真似はやめろ」
しかし、隣のユレンの声は冷ややかだった。
どうしてわかるのだろうか。ああ、なんとかしてこの場を収めないと。なんのこと? って、笑って誤魔化そうか。それとも…………でも、それじゃあ…………。
……仲間を信じろというのが「あの人」の教えだった。
フランから目線を逸らさないまま、ユレンへと意識を傾ける。
「はは……見抜かれてたかあ」
いつもの調子で軽く答えたあと、無理に笑うのをやめた。身体からすっと熱が抜けていく。
「……違うよ」
目の前の化け物と対峙するに相応しい表情。無にも近い、忌まわしいものを見る目。

こんな顔を見せて、怖がられただろうか。もちろん、ユレンのことは信頼している。それでも本性を晒すことへの不安が、痛いほどに心臓を圧迫する。
案藤にとって、化け物は殺すべき対象でしかない。友好的に接しようなど、はじめから微塵も思ってなどいないのだ。
そんな自分が、彼女に気味悪く映ってはいないだろうか。顔色を伺うように、隣に立つ少女に目をやった。
ユレンの大きな瞳と視線がかち合う。虹彩の奥に、案藤自身の姿が映っている。反射的に目を逸らしそうになるが、それより先に彼女が口を開いた。
「そうだ、それでこそ君だ」
顔に滲むのは挑発的な笑み。
「私の隣に立つに相応しい、凛々しくて良い顔になったじゃないか」
彼女は傲慢な面構えのまま、満足げに敵の方を見据えた。
心の尖ったところが少しずつ凪いでゆくのを感じる。そばにいるのがユレンでよかったと思った。
「前衛、やれるか?」
「もちろんだよ、任せて」
後衛を得意とする術型二人。しかし、もし臨時的にペアを組むなら案藤が前に出るというのは、ずっと決めていたことだった。
「ならば手を出せ」
言うが早いかユレンが半ば強引に、案藤の右手を掴んだ。全身に、自分のものではないエネルギーが宿るのを感じる。彼女の魔法だ。
ユレンが隣にいるのなら、やれる。案藤は確信し、手榴弾を手に取った。
二人なら勝てる、そう信じている。

攻撃が来ることを予測して、案藤は身構えた。
しかし、フランは想定していた間合いよりももっと奥……彼の後ろに踏み込んできた。フランの狙いは、後衛のユレン。彼女の魔法を封じれば、戦力を大幅に削げることを悟られたか。
フランが踊るように長い足を振り上げる。しなやかかつ凶悪なローキック。この距離では避けきれない。ユレンは直撃するすんでのところで強化魔法を自身にかけ、ダメージを軽減させた。それでも、身体能力が人間の数倍はある化け物の鋭い一撃だ。防御に専念していなかった以上、防ぎきることは難しい。
打ち付けられたハイヒールの先端が、刃のように脚の皮膚を裂いた。ユレンの短いスカートから露出した左の太腿が、血で赤く染まる。
案藤の目にはその光景が、妙に緩慢に映っていた。
続けて繰り出された腹部を狙ったミドルキック。
はらわたを蹴り抜かれる前に身体を後ろに引き、身体強化を右掌のみに集中させてガード。同じ攻撃を二度は通さない。ユレンは衝撃で後ずさりながらも、今度は確実に受け止める。ところどころ塗装の剥がれた廃墟の床に、靴の擦り跡がついた。
さらに追撃で飛んできたミドルは身体を捻って避ける。軌道が大きく曲がり、互いの位置関係が崩れた。フランの背後が壁になる。ユレンが体勢を整えるように半歩下がった。
両者の間合いが少し開く。

「ユレン、下がって!」
案藤が叫んだ。返事をする間もなく、ユレンは咄嗟に自身の両足を強化。無事なほうの右足で地を蹴り、思い切り後方へ飛んだ。超人的になった脚力でもって先程とは反対側の壁際まで跳躍し、着地。傷口から溢れた血が床を汚した。
案藤がユレンを呼んでから、一秒が経過。
派手に鳴り響く破裂音。同時に爆風が周囲に瓦礫を撒き散らし、それから遅れて煙が舞った。
さらに三秒経過。
案藤が手榴弾を投げたことで、またフランとの距離が遠くなった。お互いに物理型のパートナーが不在の状況下、先程のような接近戦はなんとしても避けたい。
どうする? 案藤はフランのほうに意識を残したまま、隣のユレンに視線を送る。
そこで、弾かれたように息が詰まった。彼女の左太腿の皮は大きく爆ぜ、肉が抉れて酷い有様になっていた。怪我をしたことはわかっていたが、思っていたより傷が広範囲に及んでいる。
彼女が眉ひとつ動かさないがために、見逃しかけていた。胸が焼けそうなほどの焦りが込み上げる。はやく、はやくなんとかしてあげなきゃ。前衛、やれるって言ったのに。
彼女の白いブーツが、足を伝い落ちる赤に汚染されていく。
臨時的な前衛としての自分は、どれほど不足であったのだろうか。
案藤は悪い考えを振り払おうと頭を振った。
起きてしまったことを悔やんでも仕方がないのは理解している。この場において、仮定など意味を為さないことも。
幸い、ユレンの命に別状はなさそうだ。
そして目の前には倒すべき憎い化け物がいる。まずは、あいつを。物事の順序を見誤ってはいけない。わかっている。動揺も焦りも顔に出すな。悟られるな。

フランが案藤に向き直る。暗い廃墟の室内で、作りもののような金髪はよく光って見えた。表情はなにを考えているのかよく読み取れない。
「ほらね。貴方に仲間なんて守れるわけないのよ」
冷ややかな声には、案藤のことなど見透かしたかのような嘲笑が籠っていた。
「それに、家畜は家畜らしく全員……私たちに殺されておくべきでしょう?」
形勢はこちらが不利。フランにはまだまだ余裕がある。ユレンはどうするつもりなのか。どこかに打開策さえ見出せれば……。
「……化け物、死にたくなければこれ以上レジスタンスに逆らうことをやめろ」
突如として、これまで黙っていたユレンが口を開いた。フランに向けて投げられた、挑発的な言葉。
ユレンの態度は確かに常に高圧的だ。しかし、流石にこんな場面でいたずらに敵を煽るような真似をする性格ではない。突然の味方の不可解な言動に、案藤は戸惑いを隠せなかった。
フランが眉を顰めてそれに応える。
「貴女、馬鹿なのかしら? 今の自分の立場がわかっているの?」
「無論、存分に理解している。それゆえ、貴様に対しても最初から相応の振る舞いをしているはずだが」
この場にいる中誰よりも深手を負っていながら、尊大に構えているユレン。カリスマ性があると取るか、ただ偉そうなだけだと取るか。後者のような気はする。
「ふうん……それならどうして私に歯向かうのかしら。さっきは殺し損ねたけれど、次はないわよ」
「無礼者は何を囀ろうと人類最高たるこの私に取り合う権利すら与えられん、哀れなことだ」
「言わせておけばッ!家畜のくせに……!」
フランが端麗な顔を歪ませて激昂した。まずい、攻撃が来る。ユレンは何を考えているのだろう。
「ユレン!」
「動くな案藤!」
ユレンが鋭く制止した。案藤は反射的に足を止める。

なにかが軋む音がした。
先程の手榴弾による爆発によって損傷し、亀裂の入っていた壁が、フランの後ろから崩れ出したのだ。
フランが気づいて避けようとしたときにはもう遅く、広範囲におよぶ壁の崩壊が、彼女を呑み込んだ。
案藤はすぐに理解した。いつも全くと言っていいほど化け物に興味を示さないユレンが、わざわざフランと言葉を交わしていたこと。あれは、この時を待つための時間稼ぎだったのだ。フラン側の壁が倒壊しかかっていることを見越して、あんな挑発を……。

「このっ……家畜の分際で! 小賢しい真似をしてくれたわね……!」
フランはまだ生きている。声の様子からも、大した怪我ではなさそうだ。化け物の生命力の強さに、案藤は軽く舌打ちした。
しかし、彼女の身体は腰から下が瓦礫に押し潰されている。ひとまず動きは封じられたらしい。

案藤はポケットから、折りたたみナイフを取り出した。仕留めるなら今だ、本能的にそう悟った。
「絶対に許さない」
「私のことなら構うな」
「でも……」

──でも、君の身体はたしかに化け物なんかに傷つけられたじゃないか! 僕はそれが許せないんだよ。それに、あの化け物はかつて僕の大切な人を殺したんだ。もう二度と……あんな思いはしたくないんだ。僕は、僕の大嫌いな自分の魔法を迷うことなく肯定してくれた君を、絶対に守ると誓ったんだ。
言いたいことならいくらでもあった。どれも声には満たなかった。
「冷静になれ、不用意な真似はするな」
ユレンのやけに落ち着いた態度が、かえって案藤を苦しめていた。いつもの彼女は自分を畏れない者に容赦をしない。歯向かう存在を許さない。他者の前に君臨しようとする。
そんな彼女がどうして、ここまで化け物に直接的に危害を加えられているのに、怒りを顕にしないのだろう。
戦いの場で感情に支配されることなど愚かしいから? それよりも重視すべき作戦があるから? ユレンならそう言ってもおかしくはない。
だからこそ、余計に腹が立った。
従容なユレンの代わりに怒ってあげる、などという立派な正義感からではない。彼女のためを思うのならば、大人しくしているべきなのだ。だから、これはもっと俗的な……言ってしまえばなにもかも、自分のためだった。

地面を蹴った。部屋の端から端、数メートルの距離を一気に詰める。
瓦礫と床に足を挟まれ、倒れたまま身動きの取れないフランの姿を、案藤は憎しみの生気が籠った目で見下ろした。
ナイフを握る右の手が怒りで震える。

「君だけは許さないよ」

案藤は力を込め、フランの腹部めがけて、一直線に振り下ろした。最初から殺すつもりで心臓を狙わなかったのは、できるだけ苦しませたいという復讐心からだった。
しかし、大きく裂けたのは彼女の黒い上着のみ。刃は全くと言っていいほどフランの身体に刺さっていない。
代わりに、ガラスが砕けるのに似た音とともに、なにか硬いものを割ったような感触がした。
ならば、もう一度。
ナイフの柄を強く握り直し、再び振り下ろす。今度は呆気ないほど簡単にめり込んだ。握る手に伝わってくる、温かい生き物の肉の感触。

一瞬、かつてのことが頭を過ぎったが……これは化け物で、さらに大切な人たちを傷つけた張本人なのだと思うと、すぐに感情のすべてが冷え切った。
刃先が彼女の腹部に埋まり、その傷口から滔々と血が溢れ出している。まだだ。手首が軋む。赤く濡れた刃を抜くと、鮮血の匂いが鼻孔を刺激した。
ただ、この化け物を殺したい。案藤は先程の感覚を確かめるように、三度目を振るおうとした。

そのときだった。
フランが近くに落ちていた瓦礫の破片で案藤の左手の甲を刺したのだ。
「……っ!」
大した傷には至らなかったものの、案藤には一瞬の隙ができ、フランはそれを見逃さない。自身の細い腕を伸ばし、案藤の服を掴み引き寄せ、肩のあたりを殴る。最大の武器である脚が使えずとも、フランは肉弾戦を得意とする化け物だ。衝撃で案藤の手からナイフが零れた。

「だから冷静になれと言っただろう貴様!」
突然、ユレンの鋭い声が飛んできた。案藤が咄嗟に振り返ると、怒りを溜めた彼女の瞳と目が合った。
我に返る。そうだ、順序を間違えてはいけない。慌ててナイフを拾い上げ、ユレンの方へ走る。
ユレンだけじゃなく、「あの人」だって、同じ状況ならきっと止めただろう。

「ユレン」
「無駄話はいい、手榴弾の残数はいくつだ?」
案藤の言葉を無遠慮に遮る、一方的な物言い。今更そんなことは気にならない。
「二つだよ」
彼女が求めているであろう、簡潔な答えで返した。
するとユレンがふいに、案藤の左手首を自身の小さな手で握り寄せた。フランからの攻撃を受けた手の甲を二、三度乱暴に撫で、それから振り払うように離した。その一連の行為の意味は案藤にはわからなかった。何か言いたげに、大きな瞳が恨めしそうに揺れている。
「え、なに? どうかした?」
「……いや。それより、残りの手榴弾をあの化け物がいる方向に投げろ」
「わかったよ」
「撤退するぞ。いち早くここを、化け物の出現場所として報告しなければならない」
淡々と指示を下すユレン。眉ひとつ動かない無表情の横顔。案藤はひとつ、気がかりなことがあった。
「あの、その足……走れる? この辺、足場悪いけど……」
躊躇いがちに、相手の顔色を伺いながら、案藤は問う。
言ったら、怒られるかなとは思った。ユレンのプライドは非常に高い。いつだって、彼女にできないことなどあるわけがない、はずなのである。
それでも、まだ乾くことなく血を流す足で、長距離を移動させたくはなかった。ましてや歩きにくい場所だ、地面を踏みしめるたびに激しく痛むだろう。ユレンがいくら自称通りに人類最高の救世主であれど、どんなに澄ました顔をしていようと、彼女だって人間だ。
「僕が背負っていくからさ。後ろ、乗ってよ」
案藤はユレンに背を向けて屈んだ。正直、拒絶されるだろうという予感はあった。それもかなりの確率で。
だから、背中に重みを感じ、首に腕を回されたとき、どうしようもなく安堵した。
「君にしては気がきく」
耳元で囁かれる。鼓膜を撫でていくユレンの声は、いつもよりほんの少し優しかった。

案藤は立ち上がる。力に自信があるわけではないが、彼女くらいの重さなら平気だ。言われた通りに手榴弾を取り出し、片手で乱暴にコックを引き抜き、思い切り投げた。それから同じ動作をもう一度繰り返す。
二度目の爆発音を合図に、案藤たちは崩れた廃墟から離脱した。


「ユレン、大丈夫……?」
案藤の腰のあたりから、ユレンの白い足が伸びている。血まみれになった左足がちらちらと視界に映り、そのたびに胸が痛んだ。血が自分の服に付くだとか、そういうことは考えなかった。
「案ずるな、この程度ならすぐに治る。それよりも君は、最短ルートで帰ることだけを考えろ」
「うん……」
運んでもらっておいて随分な態度だ。それでも、いつもの彼女らしさについ笑みが零れる。この角度なら、彼女からは見えないはずだ。
案藤はこんな状況だと言うのに、どうしてか笑顔になってしまった。
「……今笑ったな、帰るまで気を引き締めろ」
なぜか気付かれている。ユレンの怪訝そうな声がちくりと鼓膜を刺した。
「笑ってないよ」
「嘘をつくな」
「嘘じゃないって……あ、そうだ、ユレン」
こうなってしまったときのユレンは少し面倒だと、経験上知っている。だから案藤から話題を変えた。言っておきたいことでもあったから、タイミングとしてはちょうどいい。
「ありがとう、僕が化け物を刺したとき……君がいなければ、きっと正気じゃいられなかったよ」
「……品位の高い者は下々の言動にいちいち振り回されたりしない。私はそれを示したまでだ」
なるほど、ユレンらしいや。僕はあまりそういう風には考えないけど……。そう口にする前に、彼女は言葉を続けた。
「ああいった君の愚かさも、高潔なもので記憶を満たしていけば、いつかは治るかもしれないな」
「高潔なもの、って?」
案藤は問いかける。返ってきたのは、期待した通りの答えだった。
「この私の言うことに決まっている」
どこか満たされた気分で、彼は前を向いた。
「じゃあさ、帰ったら君の怪我はちゃんと僕が治療するから……その言葉っていうのを聞かせていてよ」
「構わんが」
世界で一番偉い人みたいな、ぶっきらぼうな返事。
君に大事がなくてよかったって、あのときすぐにでも僕を怒ってくれたくらい元気でよかったって……そう思っちゃったことは、言わない方がいいかもしれないね。
案藤はほんの少しだけ、自身の手に力を込め、命を確かめるように、背に負った重みに意識を向けた。
「私は君が有利であるよう立ち回れるなら、それでいい」
頷く。それ以上は、なにも言わなかった。

それからしばらくは黙って歩き、次に口を開いたのは案藤からだった。
「もしも僕が死んだら、なにかほしいものはある?」
ただなんとなく湧いた疑問だった。特に深い意味もなければ、これから死ぬつもりだって全くない。
耳元で「はっ」と吐き捨てるような笑い声が聞こえた。
「呆れた、与える側は常に私だろうに」
「だって、救世の魔法少女は死なないよ」
「当然だろう、だから死んだらなどとは仮定しない。君が私の持つ物で一番ほしいものは何だ?」
案藤は考えた。否、考える素振りはしたが、本当は問いかけられた時点で答えは決まっていた。
「武器、かな」
「……やはり愚かだ、君は」
背負われていながら堂々たる態度の救世主は、彼の言葉を鼻で笑った。不思議と、馬鹿にされているような気はしなかった。
「まあ、いつか、君にならくれてやらんこともない」
ユレンが肩に掴まっている手を前に伸ばした。ピンク色のネイルに飾られた小さな手は、案藤の前髪を触り、頬を触り、最後にゆっくりと喉仏のあたりを撫でた。それは私ならば君をいつでも殺せるということなのか、反対に、死ぬなよということなのか。
そもそも、彼女はこんなにも他人に身体的接触を許すような人間だっただろうか。
「気安く触るな無礼者」と仲間の手ですら払い除ける普段の彼女の姿を思い出し、今の彼女と重ねてみる。

それから案藤は、自身も常に他人とは距離を置いて接していることを思い出し、お互い様なのだと思った。


フランがようやく倒壊した壁から這い出した頃には、なにもかもが酷い状態になっていた。
二度に渡る爆破のせいで、室内は元の形を留めていない。至るところが破壊され、鉄骨が露出し、窓硝子は吹き飛んでいる。
フランの身体のあちこちには瓦礫や小石の破片が突き刺さっていた。先刻まで挟まれていた足などは、目も当てられない。
フランの持つ、生物から身体の一部を奪う能力。奪った部位は即時的な盾となるため、各パーツにつき一度ずつダメージを防ぐことができる。それがあってすらこの有様だ。なければとうに死んでいただろう。

……はやくあの人間どもを追いかけないと。
揺れる視界の中、ゆっくりと立ち上がる。憎い家畜、人間、レジスタンス。奴らを殺したい。突き動かされるように、一歩踏み出した。
そのとき、パラパラと音を立て、建物の入り口付近が崩れ出した。脆くなった壁材が落ちてゆく。

ああ、これはまずいな……。

思考だけは妙に冴えていて、冷静だった。
足を引きずって、なんとか外に出る。場違いに明るく差し込んだ午後の光が、ひしゃげた鉄片の上できらきらと反射している。意識が朦朧として、遠くがよく見えない。刺された腹から血が溢れている。はやく、帰らなくちゃ。

みんなに会いたい。つい先日、これからも一緒に写真を撮ろうねって、約束したばかりなのに。
虎狼に教わった新しい遊びを試したい。二人で見つけたコスメを炎華と使ってみたい。ローザはまたお話しましょうねって言ってくれた。みんな、みんな大切な、はじめての友達。会いたい。みんなに会いたい。

すこしずつ、指先が冷たくなっているのがわかる。死ぬわけにはいかない。みんなと永遠に会えなくなるのはあまりにも辛い。
前へ、前へと歩を進める。よろめいた。足がもつれて、それでもなんとか立っていた。
傷口が鈍く痛み、フランは現在の自分の姿を思い出した。人間から奪い、完璧になるまで作り上げた美しい身体は、今やいくつもの傷がつき、見る影もなくなっている。

『私の肌がもっと綺麗になったら、また撮りましょう』
写真を撮る約束をしたとき、たしかそう言ったのだ。
こんなにも醜くなった今の姿で、彼らに会えるわけがない。許されるわけがない。
足が止まった。ついさっきまではなんとしても帰りたかったのに、美しくないことに気がついてしまっては、もうできない。望めない。手を伸ばす。力なく壁に寄りかかった。
「寂しいな……」
一筋、涙が零れた。
フランは膝をつき、目を閉じた。
意識が遠のいてゆく。

………………。
………………………。
虎狼、炎華、ローザ。
大好きなみんな。

……会いたかったな。

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